50年後の社会はどんなんだろうと想像して未来を作る、新しいものを考えると、素敵だと思う。自分が生きたことで、50年後に遺せるものはなんだろうと考えて生きる。
1/31学びまとめ:
1.50年後の社会はどんなんだろうと想像して未来を作る、新しいものを考えると、素敵だと思う。自分が生きたことで、50年後に遺せるものはなんだろうと考えて生きる。
2.お金で買える時間もある。(時間を濃厚にする)
お金を使うことによってムダな時間を有効な時間に変えることはできる。お金をかけることで時間の密度が濃くなる
3.行動が早い人、結果を出すひとは、どこかで「割り切って、見切り発車」しているのである。
仕事でも、完全にできあがった状態になるまで相手に渡さない人がいる。これはムダな時間を生む。
たしかに見切り発車は失敗の可能性も高いし、世間から「なんだ、あの程度か」と言われることもあるだろう。それでも、とりあえず形にしてしまった方が、絶対に成長は早い。
おまけ:
どんな事態が起きても最後は成功しか考えられないというシナリオをつくる。頭を使うとは、こういうことをいう。
途中過程の失敗、プロセスがどうであろうと、最終的に望む結果が出ればいい。失敗を最終的と捉えるとただの失敗だ。失敗を途中過程と捉えれば、まだまだ未来は明るい。
考えてもしかたないことは、考えてはいけない。 必要なのは、月にロケットが飛ばせるかと論議することではなく、飛ばすためにはどうするかという論議である。
会社では、リスクにいち早く気付いて慎重論を唱える人間のほうがカッコイイと思われるようなムードがある。積極論を唱えると、「何も考えてないんじゃないの」と思われがちだ。慎重論は結局失敗を恐れて何もせず、ムダな時間が流れていくだけである。
行方不明になれる時間を持つ
時間を他人に管理されているということは、行方不明になれる時間をもてないということである。
「何もしない時間」がフリータイムなのではない。「何をしているか誰にも知られない時間」が私にとってのフリータイムである。
これまでの日本の終身雇用制は、定年までの30年間を拘束するというだけの意味ではない。社員の1日24時間を丸ごと会社が買い取っていた。30年間拘束するというより24時間拘束される方がつらい。家に帰るのは、「着替える時間ぐらいは必要だろう」という程度の配慮にすぎない。サラリーマンが帰宅したり休んだりできるのは、会社の温情によるものだったわけだ。
「自分の時間」と「他人の時間」を区別して考えている。
肝心なのは、楽しい時間がくるまで、「今」という時間を我慢するのではなく、「今」という時間をどれだけ楽しくするかということだ。
9時~17時を「他人の時間」として捨ててしまったら、その時間に自分なりの工夫をしようという気さえ起きない。要は意識の持ち方。「他人の時間」という考えは人生全体を見たとき、非常に大きな時間を捨てていることになる。
目に見えない時間コストが高くつく。